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アブラハムの3日間の旅路

キリスト教科学さきがけ』2009年07月 1日号より

The Christian Science Journal, 4.2008


アブラハムは、 何を考えていたのでしょうか?! 神に命じられて、 モリヤの地に行くため、 アブラハムは3日のあいだ歩きつづけました。 アブラハムがその3日間に語ったこと、 考えたことについて、 聖書は、 何の記録も残していません。 創世記22章の物語から私たちが知り得ることは、 アブラハムは、 神に、 愛する息子イサクを連れて行き、 山頂で息子を燔祭として捧げなさい、 と言われたということです。 モリヤに到着したアブラハムは、 息子イサクを縛って、 燔祭として捧げる準備を整えました。 ところが、 そのとき、 神の使いがアブラハムに、 息子に手をかけてはならない、 解いてやりなさい、 「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」 (創世 22:12) と告げたのです。

幾世代にもわたって学者たちは、 アブラハムの経験は、 彼の神に対する深い信仰と服従を示すものであると教えてきました。 しかし、 最近になって一部の学者は、 アブラハムは英雄などではなく、 非情なる冷酷なる父親であって、 これは、 当時の残忍な暴力の水準を確認する例証であり、 今日なら、 とても受け入れられるものではない、 と説いています。 実際、 現代の父親が、 恐らく母親に相談もせず、 子どもを連れ出して、 神から特別の恩寵を受けるために、 子を殺そうと計画するなどということは、 合法的にできるはずがありません。 それでも、 家庭内暴力や、 家庭崩壊に苦しむ犠牲者たちは、 アブラハムが、 息子を捧げよと聞かされた時と同様に、 困惑し、 神は自分たちをなぜ残酷に扱ったのだろうかと苦慮するかもしれません。 しかし、 聖書はまた、 ある人々にとっては理解に苦しむ、 このアブラハムとイサクの物語を、 霊的に解明してくれる複数の鍵を与えています。 これらの鍵は、 アブラハムの、 息子や妻に対する暴力的な、 また利己主義的な側面を強調するものではなく、 神の、 アブラハムに対する、 また彼の愛する息子に対する、 愛を示すものであり、 そればかりではなく、 全人類に対する神の愛と、 神が彼らに与えた約束を守ったことを示すものとなっています。 例えば、 神は,確かに、 彼を 「大いなる国民」 としました、 そして彼を祝福しました (創世 12:2)、 また、 イサクについては、 アブラハムの子孫が空の星のように増すことの証拠としたのです (創世 15:5参照)。 アブラハムの霊的な旅路を垣間みることは、 私たち自身の人生の旅路に光を当てることであり、 心の痛手や家族の崩壊を癒す望みがあることを示すものです。

それから何世紀も経て、 イエスの教えが、 このアブラハムの物語に光を投げかけるのですが、 それはイエスが 「地上に平和をもたらすために来たのではなく、 家族の中に剣を投げ込むために来たのである」 (マタイ 10:34-36参照) と述べた時のことです。 先を読まないと、 私たちは、 アブラハムがそうしたかと思われるように、 イエスが暴力を肯定したと結論づけてしまうかもしれません。 しかし、 そのすぐ後で、 イエスは 「自分の命を得る」 ことを望む人、 言い換えれば、 この世的な方法で平和を求める人は、 命を失い、 また神に従って神の国を求める人は、 まず自らの世俗的な生命を失わなければならない (マタイ 10:37-39参照) と、 説明しています。 人間の日常生活と、 神の国に生きる生命との違いを強調するために、 イエスは、 私たちが十字架を担うことによって、 一方から他方に移るのであると言っているのです、 つまり、 生命が物質にあるとする人間的感覚を犠牲にしなければならない、 と言っているのだと、 私は思っています。

イエスの剣は、 自分の子供たちや親たちを、 肉体の中にある肉体的な概念としてのみ認識している人には、 耐え難いほど痛く苦しいものでしょう。 愛する者たちを、 あくまでも物質的な概念として考えるなら、 物質を基盤とした関係では必ず起る離別は、 耐え難いほど苦しいものに感じられます。 しかし、 お互いについての物質的な知識を捨て去ることが、 人間関係における霊的意識の発見の源になることが、 非常に多いのです。 世俗的な願いが取り除かれるときに、 霊的意識の平和、 調和、 そして喜びが、 発見されるのです。

アブラハムの心の旅路については、 文書としての記録は何も残されていないのですが、 彼のこの3日間は,ヨナが魚のお腹の中で過ごした3日間, あるいはイエスが墓の中で過ごした3日間と似ていると考えられるでしょう。 イエスが教えている通り、 イエスのために命を失った者は,命を得るのです。 聖書に出てくるこれらの例はすべて、 生命を脅かすほど厳しい試練でした: アブラハムの剣は彼の手に握られており; ヨナは巨大な魚の腹の中に落ち、 イエスは十字架上で処刑されました。 しかし、 肉体的な繋がりを犠牲にすることによって、 生命と平和をもたらす神の計画が、 3日のうちに成就されたのです。 イサクは救われ、 成長して、 神の約束を成就するに至り; ヨナも救われ、 ニネベの人々を救うことになり; そしてイエス自身は、 完全な復活を経験することになるのです。

アブラハムは、 イサクが神自身の子であり、 神の約束であるという考えを、 完全に把握するために、 イサクが彼の意志により、 人間的な肉体を通して生まれてきたという、 生々しい映像を捨てなければならなかったのかもしれません。 また、 イサクの体によって、 彼の本体、 彼の身分を、 認めることも捨て去らなければならなかったのかもしれません。 彼はまた、 息子の生命と知性が、 彼の物質的な体の中にあると信じる誘惑と闘わなければならなかったのかもしれません。 そして、 それ以上に厳しい試練は、 彼が、 両方を求めていた、 つまり、 物質的生命と霊的生命という相反する特性の不可能な合体を、 握りしめていたいと、 願ったことだったのかもしれません。 彼に心的に敵対するものが何であったにせよ、 物質の中に生命が存在するというこれらの映像をすべて克服しなければ、 真の霊的生存の意識が明白になることはないのです。

アブラハムの物語の中で、 人の心を最も強く惹きつけるのは、 アブラハムが自分の息子について、 個人のものという物質的な見解を放棄することを学び、 息子は神に約束された子であり、 神の意志を成就するものであることを知ったということであったと、 私は考えます。 恐らく、 アブラハムにとって、 息子イサクは、 肉体をもって生まれ、 物質的な歴史をもち、 死に至るという弱みを持ち、 アブラハムに、 または他の人間に、 所有されている、 という画像を、 イサクの霊的な真実に、 つまり神に愛された子であり、 加護され、 養育され、 神の使命を果たすために準備されているという画像に、 委ねなければならなかったのでしょう。 聖書によると、 アブラハムは、 この霊的識別を垣間みていたかもしれない、 ということが何度か暗示されています。

アブラハムが、 召使いたちに少し離れたところで待っているように命じたとき、 彼は 「わたしとわらべは... あなたがたの所に帰ってきます」 (創世 22:5) と言っています。 彼がそのようになることを確かに知っていたかどうか分らないながら、 彼はそのように話しているのです。 彼はまた、 イサクが何が起こっているのか心配になって尋ねたとき、 「神みずから燔祭の子羊を備えてくださるであろう」 (創世 22:8) と、 説明しています。 ここにおいても、 アブラハムは、 神が行なうことを完全に把握していたかどうか分からないながら、 彼は自分の意志を十字架に架け、 神の意志を目撃するために来ていることを認めています。

彼の個人的な苦闘がどんなものであったにせよ、 重大なメッセージ、 神は神の霊的所産を殺すことを命じていないというメッセージが、 必要であったとき、 彼はそれを受ける用意がありました。 それどころか、 神は、 神の本来の約束が満たされることを、 アブラハムに認識して欲しかったのだろうと、 そして、 神の豊かな恵みを、 目撃して欲しかったのだろうと、 推論することもできるでしょう。

この劇的瞬間に起こったことを, 次のように要約できると思います (創世 22:10-18): アブラハムはナイフを持って、 自分の肉の願いを切り取ろうとしましたが、 その瞬間に、 神の使いの声がしました; 「アブラハムよ、 あなたはこの子を殺すために呼び出されたのではありません! これで、 あなたは神を何にも増して崇めることができることを知ったので、 あなたは神をその真の姿で理解しているのです。 わたしの目的は、 あなたに恵みをもたらし、 わたしがあなたに託した約束を成就することです。 何年も前に、 わたしはあなたを 「大いなる国民」 の父とすると言いました; そして今、 あなたは人間的な誤った願いを犠牲にしたので、 あなたは物事を新しい目で見ることができるのです。 わたしが、 わたしの約束を永遠に守ることを、 そしてわたしがあなたを愛し、 あなたの子孫たちをも愛することを、 あなたは理解することができるのです」。

イエスは、 全人類が同様の剣によって祝福され得ることを教えていますが、 その剣は、 親たちや子供たちが、 愛する者たちに、 肉の中で必死にしがみついていることから、 守るためのものなのです。 同情心、 支配的であること、 心配、 自負心などは、 すべて神の霊的な子に愛を注ぐよりも、 物質を愛する傾向を現す現象なのです。 物質への欲求を切り捨てる剣はまた、 家族を死滅性の 「苦しみ」 から切り離す剣なのです。 それは人々を、 人間関係における利己主義から、 成熟した霊的な理解へと、 目覚めさせます。 そして、 霊的な展望をもって、 神の恵みと、 すべての人への優しい愛を見ることができるのです。

アブラハムが、 知恵の速やかな警告を聞いたように、 人間関係の物質的な基礎を捨て去る人は、 天使の導きを聞くことができるのです。 彼らの剣の経験は、 神の恒久的平和、 尊敬、 喜び、 そして愛の約束を、 意識のなかに目覚めさせます。 従順に、 忠実に実行した、 アブラハムの3日間の旅路は、 神の約束が人生の中で満たされていることを発見する用意のある人すべての道程に、 光を当ててくれます。

親も子も、 兄弟も、 姉妹も、 アブラハムが苦しんだかもしれないように、 人間関係において闘わなければならないことがあるかもしれません。 しかし、 アブラハムの勝利は、 私たちの苦闘はまた、 恐怖や悲しみから解放してくれるという希望を、 もたらしてくれるのです。 人間的苦闘から解放されて、 私たちは、 神が全人間家族の一人一人に与える恵みを、 見いだす用意ができているのです。


シャーリー・ポールソンは、 イリノイ州エバンストンのギャレット福音主義神学校でキリスト教史を学び、 修士号を取得している。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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