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ゲッセマネに学ぶ

キリスト教科学さきがけ』2009年07月 1日号より

The Christian Science Journal, 1.2009


 ゲッセマネ。 耐え忍ぶ悲哀; 人間性が神性のものに屈服してゆくこと; 愛が、 何の反応も得られずとも、 なお変わらず愛であること。

ー メリー・ベーカー・エディ、 『科学と健康』、 p. 586

ゲッセマネの園は、 エルサレムの東、 オリブ山の西斜面にあります。 イエスのゲッセマネでの体験は、 私が、 まだ幼い頃に最初に読んだ聖書物語の一つでした。 イエスが、 他の人々のためにあれほど多くの善を行なっていたのに、 ゲッセマネであのように独り苦しんだということに、 胸が痛みました。 彼の教えから直接に恩恵を受け、 イエスの素晴らしい働きを目の当たりにしてきた弟子たちでさえ、 イエスが彼らの助けを最も必要としていた時に、 助ける強さをもっていませんでした。 私は、 イエスのゲッセマネの体験を、 もっと深く理解したいと思いました。 ゲッセマネから、 私は何を学ぶことができるのだろうか。 イエスの体験が、 どのように私の人生の基盤になり得るのだろうか。 ここに、 私が学び、 私を特に助けてくれた3つの点について、 述べたいと思います。

1. 神、 神性の霊が、 私たちを支える

イエスは、 数人の弟子たちとゲッセマネの園にいました。 マタイによると、 イエスは、 「悲しみを催しまた悩みはじめられた」 (マタイ 26:37)、 それは、 ユダの裏切り、 そして自分が捕われて十字架に架けられることが必至であることを、 予知していたからでした。 イエスは弟子たちに、 ここに待っていて、 彼を見守り、 自分が少し離れたところで祈るあいだ、 祈りで支えてほしいと頼みました。 しばらくして、 イエスが弟子たちのところに戻ってくると、 彼らは眠っていました。 彼らを起こして、 ペテロに、 1時間だけでもよいから、 一緒に祈っているようにと懇願しました。 ところが、 弟子たちには、 イエスの期待に応えることができず、 また眠ってしまったのでした。 それ以後、 イエスは、 弟子たちにそのような支援を求めることはありませんでした、 人間的な助けは弱く、 無力で、 彼の直面する事態が求める霊的な必要に、 応えることができないことを認めたからに違いありません。

つまり、 イエスが弟子のペテロに、 「あなたがたはそんなに、 ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、 できなかったのか」 (マタイ 26:40) と尋ねたとき、 イエスは、 それは無理なのだ、 ペテロも他の弟子たちも、 目を覚ましていることはできなかったのだ、 肉は弱いものだったのだ、 とはっきり認識したのでしょう。 しかし,イエスは、 同時に,弟子たちに支えてもらう必要がないことに、 気づいたのではないでしょうか。 彼は、 神性の愛の支えに頼ることができたのです。 そして、 実際に、 イエスが現すキリストの力と霊的清さが、 彼を、 油断せず、 冷静で、 恐れないでいることを可能にしました。

イエスの祈りは、 正直で、 飾らず、 すべてを包含し、 不屈のものでした。 「わが父よ、 もしできることでしたらどうか、 この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 しかし、 わたしの思いのままにではなく、 みこころのままになさって下さい」 (マタイ 26:39)という彼の祈りは、 神に対する確信が薄れたことを現すものではありません。 イエスの祈りは、 自分を、 神に完全に屈服させるまで、 そして自分の重荷を父の意志に委ねて、 解放されるまで、 祈るという緊迫感を示しています。 神に、 完全に降伏することによって、 イエスは、 物質的に目に映るものから目を反らし、 彼の真の、 破壊され得ない身分についての霊的展望を得ることができたのです。

イエスの生き方は、 人間の基本的な要求を正しく認識するのを助けてくれます:つまり人は誰でも、 自分を誰かに理解してもらいたいと切望します。 自分が正しく認識されたいと、 願わない人がいるでしょうか? 伴侶や友人が、 どれほど善意をもっていてくれたとしても、 彼らの助けだけでは、 十分ではないことがあるのです。 それは、 理解されたいという深い願いは、 「霊的な」 手段によってのみ、 満たされるからです。 人間の善は有限です。 しかし、 霊的善は、 無限です。 有限のものは、 無限のものを知ることはできません。 私たちが、 すべての善の源である神に、 心の底から頼るときに初めて、 そのように深く理解されたい、 真理を知りたい、 という願いが満たされるのです。 神性の愛の力のみが、 いつでも、 そして、 どんな状況下にあっても、 私たちを確実に助けてくれることができるのです。 この力は、 私たちを、 家族や隣人から切り離すものではありません、 それどころか、 この力は、 私たちをより近づけ、 そしてよりよく自分たちを、 また他の人々をも、 助けることができるようにしてくれるのです。

2. 善意は、 霊の武器である

イエスの 献身の純粋さ、 そして神性の愛に対する絶対の信頼に、 私たちは心を動かされます。 イエスが、 マルカスという高僧の家来の一人で、 イエスがゲッセマネで逮捕されることを目撃するためにやって来た人に出会ったとき、 彼が示した行動は、 愛、 許し、 道徳的勇気について、 多くのことを教えてくれます。 ペテロは、 イエスを守りたい一心で、 自分の剣を抜いて、 マルカスの耳を切り落としました。 しかし、 イエスは、 その家来の耳を完全に癒して、 それに応えたのです。 彼はペテロに次のように言いました: 「あなたの剣をもとの所におさめなさい。 剣をとる者はみな、 剣で滅びる。 それとも、 わたしが父に願って、 天の使たちを十二軍団以上も、 今つかわしていただくことができないと、 あなたは思うのか」 (マタイ 26:52,53)。

私は不当に扱われたり、 憎んだり、 自分を正当化したいとの誘惑にかられるようなとき、 イエスがどのようにマルカスに応えたかを、 思い起こします。 それは、 私が他の人々と関わっていくときの手本の一つとなっています。 もし、 不当な扱いに復しゅうすることが許されるとするなら、 イエス以上にそれをするのに該当する人はいなかったでしょう。 しかし、 イエスは、 自己を正当化することを完全に拒否して、 ペテロの野蛮な防御の方法を強く非難しました。 イエスは、 マルカスの耳を癒して、 自分の神への愛、 人類への愛を証明し、 そして同時に、 自分が神の方法と手段を完全に信頼していることを証明したのです。 私は、 もし、 イエスがあのように許すことができたのなら、 私にも許せないはずはない! と思ったことが度々あります。 神性の愛をまず優先させ、 愛の守りの規範に従うならば、 自分に課せられたどんな仕事にも、 辛抱強く対応し、 すべての憎しみや、 嫌悪、 そして、 自己正当化を拒否することができるのです。

もし、 私が、 神の愛と加護を、 存分に享受することを願うなら、 私は憎しみや、 つまらない動物的勇気を、 拒否しなければならないのです。 そして、 イエスは、 私たちすべてに、 それが可能であることを究極的に証明してくれたのです。 もし、 私たちが、 神を最高に愛しているならば、 イエスが行なったように行なうことでしょう。 メリー・ベーカー・エディは、 次のように言っています: 「もしわたしたちが、 キリスト・真理に従いたいと望むならば、 神の定める方法で従うのでなければならない。 イエスは、 『わたしを信じる者は、 またわたしのしているわざをするであろう』 と言った。 源泉にまで達して、 あらゆる悪の矯正法を見つけたいと願う人は、 科学の丘をほかの道から登ろうとしてはならない。 自然はすべて、 神が人に向ける愛を教えている、 しかし、 人が物質的なものを愛したり、 また霊的なものより、 物質的なものを信頼する限り、 神を最高に愛し、 霊的なものに愛情のすべてを注ぐことはできない」。

「もしわたしたちが、 キリストを唯一の救い主として得たいならば,わたしたちはそれがいかに昔から重んじられてきたものであっても、 物質的体系の基盤を放棄しなければならない」 (『科学と健康』、 p.326)。

私はこのことを、 自分の人生の中で証明することができました。 私が13歳のとき、 祖父が、 町の暴力団の一味である少年に殺されました。 祖父は、 日課の散歩から帰ってきて、 家の裏手にいました。 5人組で、 下は5歳、 上は19歳の一団のうち、 一番幼い子が、 他の4人にせきたてられて、 銃の引き金を引いたと言われています。 人種的憎しみから起きたこの無意味な犯罪に、 私は、 ぼう然としていました。 私は、 祖父が心優しい人であり,声を荒だてたり、 怒ってものを言ったり、 他人のことに干渉したりしない人であることを、 また、 うわさ話にふけったり、 他人を裁いたりしない人であることを知っていました。 私は、 子供なりの方法で、 理解させてくださいと神に願い、 どうしたらよいのかと祈り、 助けを求めました。

私は、 祖父が大好きだったので、 この少年たちに対して憎しみの感情を掻り立てられたり、 この殺人に対して仕返しをしたいという気持ちにならないことに、 当惑していました。 13歳の女の子として、 祖父を、 本当に愛しているのなら、 少年たちを嫌い、 復しゅうしたいと思うのは当然ではないか、 と考えたのです。 ところが、 この問いかけとほとんど同時に、 いや、 そうではない! という答が返ってきたのです。 私は、 神の愛あふれる存在を感じ、 祖父が神の永遠の子として、 生命そのものの現れとして、 永遠に神の加護の下にあることを、 確信したのです。 このように考えることは、 私にとって自然なことでした。 キリスト教科学を学ぶ日曜学校に何年も通っていました、 そして、 「十戒」を守り、 「山上の垂訓」に基づいて生きることがキリスト者に求められていることを知っていました。 私は、 それまで、 神性の愛の現存をしばしば感じ、 私の人生において、 神性の法則が働いていることを、 経験してきました。 そして、 そのとき感じていた心の平安と、 深い思いやりは、 愛の優しい現存であることを、 あらためて認識していたのです。

マルカスの耳を癒したイエスの体験が、 多くのことを教えてくれました。 私に必要なことは、 もっと愛すことで、 少年たちに判決を下したり、 更生させたりすることは、 その権限を持つものに任せ、 また、 正義は、 神に任すということでした。 私は、 聖書の言葉、 「天が地よりも高いように、 わが道は、 あなたがたの道よりも高く、 わが思いは、 あなたがたの思いよりも高い」 (イザヤ 55:9) を思い起こしていました。 私が、 怒り、 憎しみ、 復しゅうの思いを拒否したことは、 祈りの結果であり、 神性の愛の存在の証しであることを知っています。 あの時から何年も経ち、 私は、 繰り返し、 すべての犯罪と人種間の憎しみが癒されるように祈ってきましたが、 あのとき感じた神の至上の力については、 一度も疑ったことがありません。

3. イエスは園に留まらなかった

イエスのゲッセマネの経験は、 苦悩に満ちていました。 意図的であったのか、 それとも、 彼らの弱さのゆえか、 分かりませんが、 イエスに最も近かった弟子たちが彼を見捨てたのです。 独りぼっちにされること、 最も親切にしてあげた人たちから、 置き去りにされることほど、 心を傷つけられるものはありません。 しかし、 イエスは、 ゲッセマネを通り抜けて行ってしまったのです、 そこに留まらなかったのです。 そして、 彼は、 傷ついた心、 失望、 孤独、 そして、 消えないすべての苦悩を、 そこに残して行ってしまったのです。 この教訓が、 私を何よりも助けてくれました。

イエスがゲッセマネに留まらなかったのだから、 私も留まる必要がないのです。 報われない愛や支援と見えるものは、 一時的なものです。 イエスのゲッセマネの精神、 「愛が、 何の反応も得られずとも、 なお変わらず愛であること」 が、 彼を一層、 愛により頼むようにし、 墓を克服し、 復活と、 昇天に至る道を開いたのです。 前に進まなければならない時に、 自分の人間的な利己主義が、 いつまでも自己正当化に、 もがかせているのです。 私は、 ゲッセマネの教訓を思い出すことによって、 自己憐憫から、 速やかに解放されたことが度々あります: イエスは、 そこに留まっていなかったのです! エディ夫人は次のように説明しています: 「その人間的な切願に対して、 何の反応もなかった、 そこでイエスは永久に地から天へ、 感覚から魂へ転向したのである」 (『科学と健康』、 p.48)。

私たちが、 どれほど不当に扱われたとしても、 状況がどれほど不正で、 不公平であったとしても、 前進してゆく唯一の道は、 すべてを神に委ねることです。 結果は、 私たちの考えていた方法や時期や計画とは、 違うかもしれません。 しかし、 自分の考えを押し通そうとすることは、 神の慈しみに抵抗するものです。 神をもっと信頼することによって、 最高の答が得られるのです。 神が働いているということ、 つまり、 加護や、 誤りを正すことが必要であるとき、 神が加護し,誤りを正してくださることを、 信頼していればよいのです。

公正と慈しみは、 神性の愛に属し、 愛のみが正されるべきことを正し、 そして、 忠実なものは、 助けが必要などんな状況からも解放され、 報いられるでしょう。 私たちの仕事は、 イエスが 「父の仕事にたずさわっている」 と言ったときのイエスのようであることです。 私たちは、 愛の仕事に徹していることが必要です、 つまり、 愛すことによって、 私たちは 「すべてを忍び... すべてを耐える」 (第1コリント 13:7) ことを確信していることです。

そこで、 もし、 あなたが、 ご自分にとってのゲッセマネの状況にあると思われたときには、 次のことを心に留めていてください。 神を責めないように、 なぜなら愛の性質は、 無情なものでも、 思いやりのないものでもないからです。 「人間性が神性のものに屈服してゆくこと」 を、 自分の意識の中で経験することができるのです、 そして、 愛の加護を感じ、 悲しみの闇から、 癒しの光の中へと導かれていることを知るのです。 


ジュディ・コールは、 キリスト教科学実践士で、 夫リックと共に、 米国、 ミシガン州、 クラークストンに住んでいる。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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