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「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」

キリスト教科学さきがけ』2013年06月 7日号より

The Christian Science Journal, 2013年4月号より転載

この記事は、ドイツ語で執筆され、『キリスト教科学さきがけ』のドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語各版の2013年3月号に掲載された。


ニュースを見ていて、憎しみ、暴力、復しゅう、テロなどについて聞いたり、読んだりしていると、私は、和解をもたらすために、自分に何ができるだろうか、自分がどのようにして和解に貢献できるだろうかと、しばしば自問する。ヤコブとエサウについての聖書の物語は、私を助けてくれる。この双子の兄弟は、約3500年から4000年前に、今日、中東と呼ばれる地域に住んでいた。ヤコブは、レンズ豆のシチューの食事で、エサウを欺き、エサウの長子の特権をエサウから買い取った。そして、ヤコブは、エサウになりすまし、目が見えない父イサクは、長男としての祝福をヤコブに与えてしまった。長男であるエサウが、当時の伝統によれば、この祝福を受けるべきであった。そこで、聖書は次のように述べている:「エサウは父に言った、『父よ、あなたの祝福はただ一つだけですか。父よ、わたしを、わたしをも祝福してください』。エサウは声をあげて泣いた」」(創世 27:38)。この深い悲しみ、裏切られたという思い、自分は弟より愛されていない、自分は弟より価値がないという思いは、憎しみを育てる肥沃な土壌となって、まもなく殺害計画を芽生えさせる。

エサウは弟を殺すことを計画した。しかしながら、この話は、幸せな結末となる、後に、2人が和解したからである。今日、不正、裏切り、卑劣な行為、傷ついた心、憎しみ、恐れなどが、人々の思考を支配しているように思われるとき、和解が起こるように、私はこの物語から何を学ぶことができるだろうかと、自問していた。すると、この「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」という叫びが、耳に響いてきたのである。 

憎しみが起きる前、エサウは祝福されることを願っていた。祝福されることが、なぜそんなに重要なのだろうか。家長時代には、長男が父親の財産の大半を相続したので、父親の祝福を受けることが、成功、供給、威信の基盤となったからである。 

今日においても、祝福されることが絶対に必要なのだろうか。私たちはみな誰でも、幸せでありたいし、愛され、受け入れられ、感謝されたいと願っている。自分が必要な存在でありたいと願っている。これが、祝福されること、幸いであることの意味なのである。

人は誰でも祝福されたい、幸いでありたい、という基本的な願いがあることに、時々、私たちは気づいていない。自分にとって最も深いこの願いを、もしかすると、欲求不満、怒り、憎しみの衣の下に、埋め込んでしまっているのかもしれない。自分の願いを認識して、なぜそのような願いを持つのかを知り、そして、「そうです、これが自分の願いです。私は祝福されたいのです、幸いでありたいのです」と、認める勇気を見いだすことは、大変良いことである。今日もまた、憎しみや殺害計画が起こる前に、「父よ、わたしを、わたしをも祝福してください」という願いが、しばしば、言葉になって発せられずに、叫ばれているのである。 

誰でも、祝福されているのだろうか。聖書のなかで「エペソ人への手紙」を書いた筆者は、次のように答えている:「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストなる神.神キリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによっての子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めてくださったのである」(1:3-5)。 

私たちの家族は、息子の1人が1年生になってすぐ、この祝福、このの恵みの幸いを、経験した。1年生になって最初の数ヶ月のあいだ、学校で深刻な破壊的行為が頻発した。特に、ある生徒は、抑えがたい暴力的行為を繰り返していた。時には、怒って、自分の机をひっくり返したりした。

まもなく、息子は、この少年はまったく人気がないこと、誰も彼が好きでないこと、そして、彼は、爆発するので、どこでも問題を起していることに気づいた。彼をクラスの仲間に入れようとするさまざまの努力が、すべて失敗に終わっているように思われた。息子は、これらの出来事を、しばしば、私たちに話していたので、私たちは共にこの状況について祈る必要があることを知った。祈っているうちに、この少年がこのような行動に出ているのは、実は、愛を求めて叫んでいるのだということが、私たちに明確になった。まさしく、彼もまた愛されたい、祝福されたい、幸いでありたいと、感じていたのである。私たちは、この少年の両親が離婚しようとしていることを知った。

祈りの中で、私たちは、はその少年の家族の誰をも、の子として、の現れとして、愛していること、そして、は、その家族みなを祝福すること,幸いにすることしかできないことを、確信した。そのとき示されている証拠に対峙して、この理念をしっかり守る必要があった。息子と共に、私たちは、彼の友人はの愛に抱かれていて、憎しみ、孤独、拒絶などを経験できないことを認識して、慰められた。息子は、必ずしも容易ではないながら、彼を支え、彼を守ろうとしていた。

その結果はどうだろう。学年末には、この少年はクラスの環境になじんでいた。今や、すべての生徒が、彼を支援していた、そして、彼が怒ることがないように、彼を助けていた。少年が通学を続けるうちに、彼は数学が得意だということが分かった。最も難しい数学の問題でも、彼は冷静に、速やかに、心を集中して、解く能力があることを知り、みな驚いた。もはや、帳面や、机の一部などが宙に飛ぶようなことはなかった。少年たち皆が、彼を良い友だちと考えていた。 

ある意味で、私たちは、この祝福の証人となることができたのである。この祝福は、、神性原理からきたものであり、それはすべての空間を満たし、すべての力を包含し、そして、この霊、原理、神が、唯一の創造者、であり、このは、すべての人の、またなのである。の祝福、の恵みを受ける幸いは、すべての人の生得権なのである。

人、つまりすべての男性、女性、子どもを含む人は、生来、に祝福されている、の恵みを受けて幸いである、そして、この事実は変わることがない。私たちはみな、が「選び」、「傷のない者」、「きよく」ある者、そして、常にの子であることを「あらかじめ定めて下さった」者である。たとえ表面に現れる証拠とは正反対のものであっても、これが実在するのである。身体的な感覚は、私たちを裏切り、私たちの祝福を盗もうとし、私たちがの子である事実に反論する、そして、私たちを善から離れた、粗末な、罪深い、無知なものとして、描く。 

誰かが、卑劣で、暴力的で、残忍であるかのように、私たちの目に映るとき、私たちは自分を欺こうとするこの試みを、認めるのであろうか。私たちは、この欺きを受け入れる必要はない。 

エサウは、結局、自分が祝福されていること、恵まれていることを知った。エサウは、弟ヤコブに再び会って、自分がに愛されていることを感じて、弟を愛すことができた。正直な心で、エサウはヤコブに答えることができた、「弟よ、わたしはじゅうぶんもっている。あなたの物はあなたのものにしなさい」(創世 33:9)。 

エサウの経験は、私たちすべては、の息子や娘であることを理解し、そして、は、その人がどのような宗教であれ、主義であれ、すべての人を祝福すること、すべての人に恵みをもたらすことを、祈りによって確認し、この理解を守り通すことができることを、私に示してくれる。その結果、憎しみや暴力は癒される、そして、その暴発が阻止される。そのような祈りは、私たちの家族に、私たちの学校に、そして遂には、全世界に、平和を樹立する大いなる可能性を秘めている。私たちみなが、この祈りを活用することができる、その結果、誰をも祝福することができる、誰でもみな、幸いになることができる。


ウテ・ケラーは、ドイツ、ブレケーデに住むキリスト教科学看護師である。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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