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囚われの身の聖所

あるジャーナリストが祈りをもって歩んだ、自由への40日の旅路

キリスト教科学さきがけ』2011年11月 1日号より

The Christian Science Journal, April 2011


1960年代の末、私はChristian Science Monitor 紙の記者として、ベトナム戦争がもたらしている影響について報じていましたが、「人の意識に語りかける、から人への神性の伝言」であるキリストが、の平和の国に住まう人の真の本性について、私に何を告げているか聞こうとして、日々、祈っていました。戦争と暴力の証拠がどれほど目前に提示されていようとも、私は、(聖書が示す)兄弟をも殺させる冷酷なカインのコンプレックスに、人が陥りやすいという考えを絶対に受け入れまいと、必死に努力していました。

1970年の5月、私は、キリスト教科学において理解するに創造された人本来の純粋さとは、正反対の過激な前提を、自ら経験して自分を試す機会を与えられました。ベトナムにおける地上戦がカンボジアに波及して1週間後、現地の村を訪れていた私と他の2人のジャーナリストが、反乱兵に捕縛されたのです。ベトコンとクメールルージュの混合隊が、木陰から現れて、ライフル銃を突きつけ、手を上げてワゴン車から出るようにと命じたのです。私たちは、激戦地となりつつある「パロット・ビーク」という地域の周辺にいました。

当時、クメールルージュはまだ新しく、あまり知られていないゲリラ隊でした。彼らが、同胞であるカンボジア人の人口の4分の1以上を殺害して、映画にもなった「キリング・フィールド」で有名になるのは、だいぶん後のことです。それに、カンボジア戦争の初期の段階で、捕縛した欧米人ジャーナリストを彼らがどのように処遇するかについて、まだ決まった方式ができていませんでした。

私は、この事態が発生してからずっと、勇気づけてくれる賛美歌の歌詞を心のなかで聞いていました:「世の荒波分け、キリスト来ぬ」(メリー・ベーカー・エディ作詞、キリスト教科学賛美歌、253番)。私は、キリストの現存を感じて、今、自分の立っているこの場所が、聖なる地であることを知っていました。人は、決して悪の代理人、悪の犠牲者、また悪を目撃する者になり得ないと断言していました。

ある意識のレベルで、私は、恐れおののいていました。しかし、非常に深いレベルでは、私がそれまで経験したことがないほど自然に、かつ、一貫して、意識に流れ込んでくる天使のもたらすさまざまの真理を、受け止めていました。それは、攻撃的な脅威のXとかYとかZとかについて、祈り、推論して、それらを論ばくするための霊的反論を統率するといったものではありませんでした。私は、ただ注ぎ込まれてくる考えを、喜んでそのまま自然に迎え入れていました。驚いたことに、私の恐怖心は、私が霊的に受け入れる力を、少しも妨げませんでした。それは、私とは無関係のものでした。

ある意味で、祈ることが容易だったというのも、他の選択肢として与えられていたことは、銃で撃たれることしかなかったからです。しかしながら、この祈りは、それ以上のものでした。私は、積極的に生きることを選びました。もし私が、これまでキリスト教科学者として主張するの、したがって人の、真理を、理解し、信頼するように祈ってきたのであれば、自分の経験のなかでそれを証明するように直接的な挑戦に出会うのは当然のことだと思ったのです。もし、これらの真理が本当に真実であるならば、それは、私たちすべてを、銃口のいずれの側にいる者をも、すべて守るはずです。普遍なる-母神は、の子らすべてを、守るにちがいないのです。例外はないのです。は私の生命を、同僚の生命を、私たちを捕えた人たち、そして、地元の村人たちの生命をも、すべて守るのです。そして同時に、は,私たちが自らの崇高な本性を裏切ることがないように、私たちの防御を堅固なものとしているのです。

そして、私は気づいたのです。もしこれらの前提が真実でないのならば、暴力と運命に支配されたこの世にあって、私自身に何が起ころうとかまわないのだと。

捕えられた日の最初の2、3時間は、私たちの関係は穏やかなものでした。私たち3人とも、見張りたちによって、私たちの人間性を失わされるようなことがないように、用心する必要を感じて、あらゆる機会を捕えて彼らと会話するように努めました、私はフランス語で、同僚の一人はベトナム語で話しかけていました。暑いなか、水がほしいと言うと、水をくれました。ところが、私たちの処遇が、突然変わりました。強硬派のものが、私たちを捕えた者たちに取って代わり、親しい対応を取りやめたのです。私は、イザヤ書(60:18)の「暴虐は、もはやあなたの地に聞かれず、あなたはその城壁を『救』ととなえ、その門を『誉』ととなえる」という約束について考えました。したがって、私の経験は、を誉めたたえることしかできないということに固執しました。私は、暴力や集団心理の感染にだまされることはできないのです。私は、敵なる人を見ることはできず、私が敵なる人として見られることもありえないのです。

ある日、私たちが、反政府軍の領地に奥深く入って歩いているとき、私は、真理を特に厳しく固持しなくてはならないと鋭く直感し、その直感に従い、祈りました。数週間してから、見張りの人との話で分かったことですが、実は、正にそのとき、敵意の強い一派が、私たちをその場で銃殺しようとしていたということでした。この直ちに殺されるという脅威が無効とされたことは、それから解放されるまでの40日間に私が行なった具体的な祈りに対して与えられた4つの答の最初のものでした。2つ目の祈りは、自分を強姦から守り、同時に、2人の男性の同僚に対する虐待の阻止となりました。3つ目は、私の恐怖心を無くし、そして、4つ目は、私たち全員が傷一つ負わず解放されたことでした。

私たちは、すぐに処刑される代わりに、ある村に連れていかれ、まるで人民裁判で責められるように、さらし者にされました。そして、その舞台が突然中断し、私たちは、迷彩色のトラックに乗せられ、緊張した見張りに銃を突きつけられながら、別の村に連れて行かれ、また、さらし者にされたのです。地元のカンボジア人たちがトラックに飛び乗ってきて、私たちに向かって怒鳴っていきました。私は、彼らに対して、深い慈しみを覚え、イエスは「科学において、完全な人を見た、ところが彼には完全に見えた人が、人間には罪ある滅びる人に見えるのである」(『科学と健康』476−477)と言ったときに見たものを、幾分なりとも把握したのです。

次の村では、きつく目隠しをされ、トラックから出されて、罪人のように居並ぶ人垣の中を歩かされました。(雰囲気は、非常に敵意に満ちていましたが、蹴られたり叩かれたりすることはほとんどありませんでした。)すると、背後から何人かの男たちがきて、2人の同僚を捕えて、私から引き離し、怒鳴りながら遠いところへ走り去って行くのが聞こえました。

次に、私は、ある建物に連れて行かれて、そこで、村人たちが集団で波状攻撃のように次々とやってきて、私を怒鳴りつけてゆきました。一人の男性が、私の足からサンダルをはぎとり、部屋の反対側に投げつけました。少し静まったとき、私は何か飲みたいという意思表示をしたところ、水をくれました。次に、無謀な抵抗のように思えながら、直感的に目隠しを取ることにしました。反対されること無く、取ることができました。夕暮れでした。それからまもなく、私が、一人の見張りと2人きりになると、その見張りが、私の側に来て、私の指から指輪をねじ取り、強姦しようとしました。部屋には他に誰もいませんでした。

それまで、私の祈りは、すべて無言の祈りでした。しかし、このとき、私は、相手に通じる言葉ではないながら、彼に声を出して言いました:「あなたは、私の兄弟です」。また、「あなたは、の子として必要なものはすべて与えられています」。彼は,少しためらったのち、「」ということばを声に出して繰り返し、指輪を静かに私の指に戻しました。そして、強姦はしませんでした。

私は、畏敬の念に打たれ、、つまり「偉大なる私はある;“すべて知るもの”、“すべて見るもの”、“すべて行動するもの”、“すべて賢明であるもの”、“すべて愛するもの”、そして永遠なるもの;原理生命真理;すべての実質;知性」(『科学と健康』、p. 587)であるの現存と力を実感し、言い知れぬ喜びに浸っていました。

それからまた15分ほどすると、他の人が入ってきて、私を静かに連れ出しました。彼は、私のサンダルを取ってきてくれ、別の建物に連れて行くと、そこには、私の仲間たちが座っていました。まだ目隠しされていましたが、けがはしていませんでした。これは、とても大事なことでした。というのは、もし私たちの一人でも大きな傷など受けていたら、それが彼らに、それを隠すために、私たちを解放するのではなく、殺してしまおうという強い動機となっていたにちがいないからです。私の仲間たちは、バイクにつながれて、目隠しのままバイクの後ろを走らされながら、何とか転ばず、自分の足で走りつづけたとのことでした。そして、一人の反乱軍兵が、同僚2人のうちの若い方の頭を殴りましたが、私と見張りとの一件が起こっていたのとほぼ同じ時間に、別のやや年配の将校がやってきて、虐待を止めさせ、2人を、私と再会した建物に連れていくように命じたということでした。私が到着すると、彼らも目隠しを取ることを許され、私たちは、その日、初めて食べ物を与えられ、バケツの水で体を洗うことも許されました。その時から私たちは、物理的にまともに扱われるようになりました。

私の祈りの3番目の答えは、恐れを無くし、恐怖心を解消したことでした。カンボジアでの最初の一週間のあいだに、外部から何回か、ベトナム人の尋問者が、私たちが日中閉じ込められていた村の家々にバイクでやってきました。彼が激しい口調で言ったことは、もし、私たちがジャーナリストだと分かったら、ていねいに扱うが、もしスパイだと分かれば、スパイなりに扱い、処刑されるだろうということでした。(これは、私たちの処遇についての決定が、血気盛んな地域反乱軍から政治的上層部に移されていましたが、上層部は、まだ一週間しかたっていないカンボジアでの戦争において、ゲリラたちが捕えた私たちや他の外国人ジャーナリストたちをどう扱うかについて、まだ決めていないことを示唆していました。)

バイクが近づく音を聞くたびに、私の心臓の鼓動が急に早く激しくなりました。しかし、私は、このことを気にしませんでした。というのは、すでに第1日目に、恐怖、テロは、私と無関係のものだということを発見していたからです。それでも、私は、毎朝、と一体になる時間を持つようにしていました。それは、私たちが夜明け前、一人ずつ家を出てトイレを使うことが許された後、また、仲間が眠りについた後の時間でした。そして、カンボジアでの最初の一週間の終わりに、私は、この大切な時間に、自分に問いかけたのです、私は何を恐れているのだろうか、と。論理立てて考えました。物質にある生命を失うことを恐れることは不可能である、なぜなら、物質には失うべき生命がないからである。さらに、メッセンジャーらは、善い、平和的な知らせしかもたらすことができないと考えました。イザヤ書に、「よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げる…者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう」(イザヤ 52:7)とあります。そして、ヨハネによるとされる次の言葉があります:「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く」(第1ヨハネ 4:18)。

その日は、驚いたことに、バイクの音がしても、私には恐怖の症状が全く現れませんでした。その日は、めずらしく、私がフランス語で通訳をすることになりました。そして、尋問者が、私たちがスパイ用のカメラを持っていると責め立てても、私は、何も恐れず、それは馬鹿げている、無意味なことだ、と応えました。私は、恐怖心が消えたことで、喜びに満ちていました。結局、そのような厳しい尋問にあったのは、それが最後となりました。

祈りへの4番目の具体的な答えを得たのは、捕えられてから4週間以上たったときのことでした。私たちは、村で暮らす習慣に慣れてきたころでしたが、その暮らしは、時折、急に迫る南ベトナム軍やアメリカ軍の攻撃から逃れるために、徒歩や車で、日中、あるいは、夜間、移動するなどで中断されることがありました。それでも、二度と、死に直面するほどの脅威にさらされることはなく、ジャーナリストとして、私たちは反乱軍の領域にある村の暮らしを見る貴重な機会を得たことに感謝していました。

しかし、何の進展もなく、状況は解決されていませんでした。ある朝、このことを考えているうちに、人は、決して地獄の渕にいることはない、常に解決し、実証する立場にあるということを理解しました。あらゆる段階にあって、は、霊感を与えるばかりではなく、「道を照らし、指摘し、そして先導する」(『科学と健康』, p.454)のです。その日、解放されるかもしれないという最初の兆しとして、見張りが、「解放されるとしたら、どこに行きたいか」と尋ねたのです。

その一週間後、私たちは、実際に、真夜中にバイクに乗せられ、サイゴンとプノンペンを結ぶ幹線道路まで連れて行かれました、そして、朝になって、そこからヒッチハイクでサイゴンに戻ってきたのでした。私たちの見張りは、一触即発の状況下、兵士たちが確認することなく銃を発射してしまう恐れがあることを心配して、いざというときはこれを振って知らせるようにと、白いハンカチを持たせてくれました。その夜は、「は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう」(詩編121:8)との確信をもって、賛美しながら、100キロほど、パロット・ビークを走リ抜けました。

私たちは、カンボジアで解放された最初の外国人ジャーナリストでした。私たちの解放が、初期の反乱軍との遭遇を生きのびたジャーナリストたちの解放への仕組みを作ったように思います。身代金は一切支払われませんでした。(戦闘地域で身代金が一般的に要求されるようになったのは、後のことです。)また、私たちは、アメリカ軍の戦闘活動によって救助されたのでもありません。実は、後で分かったことですが、捕虜となっているアメリカ兵の救出の訓練のため、一時、そのような作戦が計画されたのですが、中止になったということです。これは、私にとって重要なことでした。私たちを解放するために、いずれの側にせよ死者が出るようなことは、私の祈りの普遍性に反することになるからです。他の人の生命が代償となるなら、私は解放されることを望みませんでした。

私が真に自由を得ていたことは、その後、トラウマが一切ないということで実証されています。悪夢や眠れないなどということを全く経験していませんし、脅迫には何の力もないことを実証したことに対するへの感謝以外には、脅迫の経験がよみがえるということはありません。

もちろん、私は、もっと多くを実証したいと切に願いました。特に、私たちが滞在した村々で目にした多くの苦しみに喘ぐ人々を,癒したいと願いました。パウロが、船の沈没の後、マリタで癒しを行なったようにです。それでも、私は、私たちの経験を通して霊的法則が実証されていることを確かに目撃できたこと、そして、このことが、全人類を、「諸国民を癒す」(黙示録 22:2)ためにもつ普遍的約束について、大いなる喜びを覚えています。私のカンボジアでの経験は、捕虜という厳しい試練ではなく、ある聖所における霊的な深まりであったと、私は心から正直に言うことができます。

この経験全体を通して、聖書と『科学と健康』に書かれている幾つかの文章が私にとって特に生き生きとした意味を持ち、よりいっそう鮮明になりました。特に、次の節です:「淋しい墓の構内は、イエスにとって、敵からの避け所となり、また存在に関する大問題を解決する場所となったのである。彼が墓の中でした三日間の仕事は、時に対して永遠の封印を押した。彼は、生命には死がないこと、は憎しみの征服者であることを証明した」。そして、「の現存を表わすガブリエルは、争うことがない。無限で常に現存するには、すべてがである、そして誤りも、罪も、病気も、死も存在しない。に向かって、龍は長く戦うことはない、なぜなら龍は、神性原理に殺されるからである。真理は、龍に対して勝利を得る、なぜなら龍はそれらを相手に戦うことはできないからである。かくして肉との間の争いは終わったのである」(『科学と健康』、p. 44、および p. 567)。

メリー・ベーカー・エディが、かつて書いたように、「我々は、“すべてにおけるすべて”であるべく、の神性なる冒険の時代に生きているのである」(The First Church of Christ, Scientist, and Miscellany, p. 158)。


エリザベス・ポンド氏は、ドイツ、ベルリン在住のジャーナリスト、著作家である。1970年代には、Christian Science Monitor紙の東京特派員であった。

『さきがけ』の使命

1903年に、メリー・ベーカー・エディは、『キリスト教科学さきがけ』を創刊しました。その目的は、「真理の普遍的活動と有用性を宣言する」ことでした。ある辞書によると、『さきがけ』定義は「先発の使者」(先触れ、先駆け)ー 後に起こる事が近づいていることを告げるために先立って送られる者、使者」であり、『さきがけ』という名称に重要な意味を与えています。さらにまた、この定義は、私たちの義務を指し示しています。それは私たち一人一人に課せられた義務であって、私たちには、私たちの『さきがけ』がその責務を十分に果たしているか見届ける義務があるのです。この責務はキリストと不可分であって、まず初めに、イエスが、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」(マルコ 16:15)と述べて、表明したものでした。

Mary Sands Lee (メリー・サンズ・リー)、Christian Science Sentinel, 1956年 7月 7日

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